作品抄
スカーフの端飛びたがる青嵐 スミ
漢字とは美しきもの花菖蒲 イマ
式部より清少納言額の花 チシ
日の匂ひ土の匂ひの草むしる チシ
春の蚊を打ち損うて老いにけり チシ
定年の夫が懸けたる夏暖簾 イマ
挙手の礼返す門衛夕薄暑 イカ
夏の雲島へ船発つアナウンス イカ
煮魚の少し辛目や夏に入る ヤミ
花ミモザ大道芸の人だかり チト
薬草の薫る風吹く息吹山 イケ
若楓光の君のやうに在り ヤミ
媼句来て蕗の荷を解く湯治宿 イカ
山蕗の茹であがりたる香りなりけり スミ
新茶汲む遺影の母に声かけて イレ
短 評
式部よりの句… 式部で身近にだれでも名を知っているのは、紫式部と和泉式部。どちらかな?と思わせるところが案外この句の狙いなのかもしれませんね。「分からない」、表現不十分という人が出てくるかもしれません。
日の匂いの句…原句は、下五が「草むしり」。「我」が俳句の前提ですから「草むしる」ですね。自分の肉体に這入ったものを実感として歌う物。それが俳句。これを「肉体俳句」と呼んで推奨。
定年の夫の句… 今日をもって定年という日のこととして鑑賞すると好い味がします。いつもはそんなことをする人ではないのに、これから懸けようとしていた夏の暖簾をふと目にとめ、なんと懸けて出掛けてゆく夫。定年後の何もすることもない夫がそんなことをしたのであればいただけない。そのどちらか?少し分かりにくいので更に工夫がいると思います。もし後者のことであれば、ボツにしましょう。
煮魚の少し…の句 味の変化を感じ取ったひとの句。料理の作り手の立場の句であれば、いささか説明がすぎる句になる。
薬草のの句… 原句は、「薬草の千年香る息吹山」で無季。薬草の山として名のあるところなので、「千年」は不要なので「薫る風」と添削。
若楓光の君のやうに在りの句… 若楓で切れて、光りのやうにと続きますから、「光の君」のような人が目の前に居るという内容になります。それが俳句の解釈の仕方です。切れ字は、「や」「かな」ばかりでなく、このように名詞は、切字の役目をします。若葉光が光の君と云うつもりだというかもしれませんがそれは成立しませんよ。
媼来ての句… 下五に「湯治宿」を据えることによって何故来たのか?そのなぞ解きをしています。手品でもなぞ解きをされてしまうと興ざめになります。俳句でもなぞ解きはやめましょう。説明はやめましょう。
<媼来て屈みて蕗の荷を解ける>だったら情景として媼の姿が浮き出てくると思います。それが分かるかな?
花は葉に廃止とありしバス路線 イカ
鳥の恋駅の名大師前といふ
藤の花降る日連衆そろひけり
風五月寺の太鼓の鳴りだしぬ
石像の大師の裾を雀の子
風薫る豊山太鼓の轟けり チシ
緑蔭や喜捨せし僧に幸貰ふ
鯉のぼり鯉口シャツを売る男
参道をゆつくりと来る春日傘
遅咲きの牡丹にカメラ向けにけり
宝前の牡丹崩るる大太鼓 アヒ
栄螺堂の中の暗闇暮の春
軒菖蒲用にと菖蒲売られをり
客を待つ露店帽子屋桜の実
煎餅の音高らかに夏初め
水音の権現堂の茂りかな シケ
ひとり湯となどと思いつ菖蒲買う
夏近し豊山太鼓に迎えられ
葉隠れに瀧音響く奥の院
泥鰌鍋食券売れる六代目
鯉幟御大師様の風に乗り アノ
新緑の風に吹かるる古着店
太鼓打つ青年層に夏近し
風薫る復興支援の大太鼓
桜の実烏賊ののし焼き列なせる
椎若葉出世稲荷の赤い旗 ハセ
線香をあげて薄暑の西新井
風薫る願掛けの塩山とあり
大太鼓般若心経ぼたん咲く
藤棚の満開終る大師堂
かたくりの山菜として売られおり オミ
緑蔭に疣とり願う塩地蔵
芍薬の花びらゆれる大太鼓
鯉のぼり尾の垂れている日和なり
草だんご柏餅売る人の声
始め居る吟行体験風薫る イア
風薫る豊山太鼓の響きあり
たらの芽をまず買う露店大師様
見つけたり彼岸桜の実の成るを
芍薬や太鼓に乗りて読経する
青葉風連れ立つ人も一人にも ヤミ
芍薬の仏蘭西名でありにけり
椎若葉賽銭箱に紋二つ
ひと息を吹いて昼餉の泥鰌鍋
水漬きたる山葵の花を家苞に
鯉のぼり般若心経大太鼓 トンボ
鯉幟般若心経観自在
鯉のぼり松鶴家千とせ歌ひをり
芍薬を囲む三十ほど眼
芍薬の莟みるみる堅くなる