◎今月の定例句会  2015・12月  2015・12・22

当日入選句

 

冬日差ありて塀なき少年院         シケ

歳晩や人こそ恋し六区の灯         アヒ

町寺の山門不幸雪催            アノ

切干に人参色の日差しかな         ヤミ

煤逃げの寄席の時蕎麦厩火事        アヒ

バス走るいま鎌倉の冬桜          ナミ

手足より口の忙しき師走かな        コフ

風呂吹や何かといえば母のこと       イカ

指先で三本締める年忘           シケ

 

●添削例

原句 ・歳晩や人の恋しき六区の灯

添削 ・歳晩や人こそ恋し六区の灯

 

原句 ・煤逃げの寄席に「時蕎麦」「厩火事」

添削 ・煤逃げの寄席の時蕎麦厩火事

 

※この2句には、作者という人間が不足しておりましたので感情を込めた句に直しました。従いまして作者の人格にまで踏み込んでいることになります。

 

添削には、語句を直すなど技術面を重要視する立場発想に注意を促す立場がありますが、そのためにこの例のように踏み込むことがあります。

 

注意深い人は、このコーナーでは従来から一貫してその立場であることに気づかれておられることと思います。ある人にとっては有難迷惑ともいえるものでしょう。添削は最終結論ではなく作句の始まりとして意義あるものにしていただければ幸いです。

添削の受け止め方、このことを心にとめておいて欲しいと思います。

 

次の例は、技術的な指摘。

 

原句 ・指先で三本締めり年忘

添削 ・指先で三本締める年忘

 

句の題材ととして格の高下を求めるとすれば、人格にも踏み込んだ形になりますが、一句としてはこれで完成です。

 

●気になった句について

 

冬川や舫い解かれぬ遊漁

 

※冬ともなれば遊漁船の出番が少なくなるのは当たり前で当たり前のことを当たり前に詠んでいる句です。舫いを解いて冬の川へ繰り出すところであれば、人間の営みが垣間見られてその世界に誘われることでしょう。

 

・風呂吹や父の愛した母の味

 

※作者は、この父も母も亡くしているということが分かっていますから違和感が先に立ちます。俳句では「いま」が詠まれていることが原則ですから、その母の味をいま再現してくれている人が描かれていなければならないでしょう。

父の愛した母の味を懐かしがっている内容なのかもしれませんが、そうだとしてもこれでは、言葉だけの世界になり何か絵空事の様な感じが先立ちます。

俳句では、「いま」を描くことによって作者の今の現実が再現され読者にも伝わるもなのです。

 

・しもやけの幼き日々の路地遊び

にもそれが云えるでしょう。

 

・極月の皇居へ人の犇めける

この句には、「乾通り解放日」とまえがきがついています。

 

※二つ気になるところがあります。

その1は、紅葉の季節に合わせて皇居乾通りが解放されましたが、その人出ですから大勢人が集まるのは、これ、当り前。

 

その2は、「極月」は、月極まる月ということで12月の異称。感覚的には、ただ単純に12月=極月ということではなさそうに思えます。

紅葉を見る、その時は、確かに12月になってからですが極月というのは抵抗があります。そういう句であれば、

・年の瀬の乾門通り解放日

とでもすればよいでしょう。この特別の日のために

蝟集(いしゅう)する人々がいることは言わずもながのことです。

 

・極月の皇居へ人の犇めける

 

前書が無ければ、極月という措辞から12月23日の天皇誕生日のことを想い浮かべる人があるでしょう。

 

「極月」という語の本意、言葉の本意に敏感であって欲しいと思います。

 

ここで更に考慮すべきこと。同類と思われる例をあげておきましょう。

 

秋の季語に「爽やか」があります。これは「さわやか」と読みますが、歳時記などにこの読みとして「さやか」をあげているものがあります。どういう理由で挙げているのか解りませんが、「さやか」は、漢字で「清か」と書き、鮮やかに見える意ですからからだに感じる「爽やか」とは違う感覚です。

 

爽やかという季語の本意をある歳時記には、「…秋のはっきりした快い感じを季語にしたもの」。とあり、

また別の歳時記には、「…主観的な形容語で季語とされているものに、春の「麗か」「長閑」に対して、秋の「爽やか」「身に入む」「冷まじ」がある」。と書かれています。

 

爽やかと清かは、明らかにその感覚がは違う語であること。言葉には、言葉の趣があり、それを弁別、意識して活かすことが大事です。

 

もう一件言葉の使い方として疑問の句を挙げておきます。

 

今回の句会で

・二合半を疾うに過ぎたる年忘れ

 

がありました。二合半は「こなから」といい、「こなから酒」というような言い方をしますが、この句のような使い方にはやや違和感があります。

 

少し話が逸れるかも分かりませんが、

白魚(シラウオ)という季語がありますが、これも白魚のとは別物の素魚と書く「シロウオ」と同一のものとしている句が氾濫しています。

 

白魚は、水から上るとすぐすぐ白くなってしまうシラウオ科の魚。佃島の名物です。白魚汁(しらおじる)では、白い10センチほどの魚としてお目にかかれます。

 

素魚は、踊り食いとして 馴染みのある魚で福岡の室見川の名物。体長5センチほどのハゼ科の魚です。同じハゼ科のイサザが代用されこれもふくめた名前です。水中に透明な姿を愛でる魚です。

 

・白いからだと透明なからだ

・10センチほどの体長と5センチほどの体長

 

これほどはっきりした違いがあり、歳時記によっては白魚の項目のところで、踊り食いのシロウオは、これとは別と、はっきり書かれています。

  

はっきり書かれていても、各自にその意識がない限りいつまでも見過ごされ混乱が続いていくことでしょう。 

 

これらいずれの例でもはっきりと本意を掴んでいないことからくるものなのでしょう。

 

◎紅葉の六義園吟行    2015・12・5

つつじ茶屋  岩崎家駒込別邸として使われていた時に造られ現存する唯一の建て物。椿材とさるすべり材で造られている


冬晴やガイドの小旗先立てて       イカ

石二つ繋げる橋や冬晴るる

石橋をきんくろはじろ返しけり

日は西へ廻つてをりぬ冬芒

別れけり大枯枝垂桜見て

 

雪吊や池に映れる空の碧        チシ

冬うらら苑に中年男女かな

馬場跡の径に枯葉の積りけり

六義園落葉の径をめぐりをり

六義園異人見てゐる返り花

 

冬日射す手庇に池見て居りぬ      オミ

目に止める人無く過ぎる花八つ手

小春日の石橋そっと渡りけり

冬の午後小径横切る鴨一羽

菰巻きの松を横目に滝見茶屋

 

紅葉散る頭の上に紅葉散る       ミノ

雪吊の松の後に人の声

菰巻の松に午後の日当りけり

走り根に足元危うき紅葉狩

走り根を踏み越え行けり落葉径

 

冬紅葉照り翳りしていもせ山      アヒ

石の橋土橋木橋や冬の水

紅葉散る磯渡りにも水面にも

蛛道に落葉の嵩なせる

走り根につまづく小径花八つ手

 

冬の陽の遍く渡る六義園        アノ

紀ノ川の流れに委ね浮寝鳥

逆光の葉裏うるわし冬紅葉

万葉の歌詠むガイド冬日和

雪吊を纏いし松の青さかな

 

旅めきし蛛道落葉道          ヤミ

小春日の藤代峠てふ小山

走り根を避けてくぐりぬ冬紅葉

冬ぬくし杭に吊られし救命具

浮寝鳥中の島へと近づきぬ

 

藪巻の松の大木累々と         トンボ

冬晴や藤代峠へ径幾つ

どこまでも道ある限り散紅葉

名にし負ふ妹山背山鶴渡る

にほどりの尻立て潜る臥龍石

 

 

 

※日本庭園の吟行です。

 

庭園にあるものを庭園にある状態として詠みあげている句が多いように思えますが

 

庭園が描いている世界、それを読みとりそれを詠むことが好いのではないでしょうか。

 

もっと大きく堂々と。