◎9月、定例句会 2015・9・25

当日作品・入選句

●秋高し神田川経て大川へ         アノ

●秋茜母と歩きて楽しくて         ヤミ

●再開の登山鉄道秋の草          チシ

●書き替えのシルバーパスや九月来る    ハセ

●釘打てば曲つてばかり秋の雨       イカ

●萩活ける天神下の古美術店        アノ

●秋澄める人形供養観音堂         アノ

●鏡花の忌天守へ到る急梯子        アヒ

●赤蜻蛉一二三と池の杭          ハセ

●相席の人から貰ふ柿一つ         チシ

●牧水の歌口遊む秋の草          アノ

●抽んでて添う男郎花女郎花        アヒ

●一回り大きな花瓶秋の草         イケ

●秋草へ荷物を下す陶器市         アノ

 

◎添削した句の原句

・再開す登山鉄道秋の草

・秋草の花牧水の歌口遊む

・秋草辺へに荷物をおろし陶器市

 

「や」の使い方

 

こういう句だったと思います。

 

・手遊びのきつねの影や月あかり

 

月あかりの中、手すさび、つまり退屈をを紛らすために影絵をしているところでしょう。手遊びですから誰も居ないひとりの月見というところ。

 

この句、この影絵の明りは、当然、月明りなのだと連想されます。「・・・影や」となっていて「や」できれていますからこれで描くべき情景が完成しました。

この句の造りでは、下五に季語を置かねば一句になりません。下五に「月あかり」ではなく、「月あかり」を連想させる季語を置くことになるでしょう。


・手遊びのきつねの影や月の夜

 

「や」ではなく、「の」とすると

 

・手遊びのきつねの影も月あかり

 

となるでしょう。二句一章にするか後者のように一句一章にすることになります。

 

「月の夜」と仮に置いてみましたが「手遊び」をせねばならない状況を描くのに最適かどうかは再考の余地があります。あるいはこれは、「手遊び」などという言葉を気取って使っているだけかも知れないと思わないわけでもありません。

 

「や」の使い方、芭蕉にこんな句がある事を知りました。

 

●冬瓜やたがいにかはる顔の形(なり)

 

故郷の伊賀上野に帰ったときの作で、久々に会う人々も年をとって、顔もそれなりに変ってしまった。という句です。「老女に会ふ」などと題をつけたらいいと冗談をいったという。と長谷川櫂氏が書いています。

 

ここで注目して欲しいのは、句の形。掲句は、上五に置かれた句ですが、中七に置いても「や」とは、このように次の言葉と意味を離して使うものと記憶しておいてください。

 

添削とは?

・添削は作品を作った目とちがった目で作品を見直す。

・ある一面とちがった見る面から物を見るというはたらき。

・推敲過程で生まれる一句一句を冷静に受け止めることは困難で、その表現がより以上のものか、あるいはより以下のものか錯覚しがち。その別の顔の目からの視点。

 

というのが、役割。

最終結論ではなく、そこから始まるものです。

 

添削をして入選句とした句は、内容を可とし、表現に瑕疵がありそれを直したものです。

 

自分の表現が絶対唯一で、その理解を得られないことに不満顔をされるひとがあります。

この多くは、発想の見直しを迫っているものですからそうお思われるのは当然のことと思います。

後日、ああそうかという自得されることを期待しているわけで、そのような受け取り方をしてほしいと思います。

 

我が身を振り返ってみますと、同じようなことでした。

反省しその結果が身の糧となりました。当時を振り返ってみますと多くは添削などでは無く、「これは、ボツ」と言われる事がおおかったように思います。ボツは、その意味では、添削以上の指導であったと思います


「一句一句を冷静に受け止めることは困難」でボツによって目が開かされたものです。

 

●素材やモチーフ(表現の中心的な動機となるものごと)が陳腐

●表現が表現になっていない不熟

 

の句がほとんどだったのですから添削にも値しない句であったからでしょう。

 

なによりもモチーフ。これが陳腐では、話になりませんが、その事になかなか気づくことができませんでした。

 

俳句は、何度も云いますが、相手が完成させるものです。

その相手にこれで分かるだろうということでは、十分な理解を得ることは出来ないでしょう。

 

ある一つの視点をずらしてみる。

 

例えば、

 

今回の入選句の中でそのまま入選とした句に

 

●釘打てば曲つてばかり秋の雨

 

の句がありました。これを発想を変えて大胆に改作すると

 

●釘打てば曲つてばかり秋の空

 

とすれば、作者の意から離れたものになりますが別の句として魅力が増すように思いますが如何ですか。

 

ベテランの句ですが、添削例して置きたい句があります。ボツとした句です。

 

原 句 ●秋草の岸から岸へ渡し舟


添削句 ●秋草の岸から岸を渡し舟

 

この句の味わい、格が高くなったと思います。

如何でしょうか。


 

 

9月吟行 利根運河 2015・9・5

当日作品

          

運河とは名のみに昼のキリギリス      イカ

補聴器を九月の風の掠めけり

曼珠沙華ジョギングの人会釈して

誰もみなしびとばなとは口にせず

ふたもとの小橋の前の捨子花

          

秋高しとんがり屋根の時計塔        オミ

手招きをされて出会いし彼岸花

一面の赤白黄色彼岸花

顔ぶれに逢いに来たのね秋の蝶

秋草に腰掛椅子の隠れあり

          

からまりて土手を覆いし灸花        イア

石段を埋めつくして秋の草

秋蝶の三種飛び交う土手の道

秋草や昔栄えし利根運河

秋風や流れのゆるき利根運河

          

手に取ればへくそかずらと云われけり    シケ

さわやかや白雲映す利根運河

小流れの先は江戸川赤のまま

一群の花へと潜る秋の蝶

吟行に文夫のおらず秋の風

          

秋草の繁れる中の利根運河         イケ

急斜面火焔のごとく曼珠沙華

天高しキャンパス見ゆる向岸

佇立する草のかげより秋の蝶

曼珠沙華道にカメラの列続く

          

秋の雲電波鉄塔向岸            チシ

ひぐらしや携帯電話着信す

屁糞葛寄つてたかって手に取りぬ

秋草やベンチに老の二人組

法面を埋めてをれる曼殊沙華

          

ライダーの憩う土手道秋の蝶        アノ

理科大を望む土手道曼珠沙華

浮橋の架かる運河や秋茜

利根運河かつて川道秋の草

見晴かす運河の堤秋高し

           

降り立てば秋の風吹く運河駅        アヒ

秋愉し草の名前を諳んじる

曼珠沙華群れ咲く土手のひとところ

一羽来て連れ立つ鷺や秋高し

つくつくしかつて栄えし利根運河

          

揺れてこそ色濃くなれり曼珠沙華      ヤミ

曼珠沙華黄色を見れば緋が良くて

対岸を行き交ふ人や秋日和

とんばうの群の速さや利根運河

みづかさの低き運河や草の花

          

音に聞く屁糞葛と出遭いけり       トンボ

指さして曼殊沙華へと急ぎけり

半生のひと日なりけり曼殊沙華

老いらくの恋には遠し曼殊沙華

秋蝶のシャッターチャンスを逃れ発つ

※写真は合成してあります