さり気なく出されて涼し井戸茶碗
宴会の後の団扇の残りをり
うすものも浴衣も上野博物館
冷房や若者元気失へる
炎天のじわりじわりとなつかしく
トロ箱の嵩の崩るる暑さかな
蝉声や老人野球休憩中
鎌倉山の音する沙羅の花
水を打つ笛の豆腐屋来るころか
ひまはりのゆらりと高し芥川
黄鐘の音色震へる蟻地獄
夏氷凍りの汗を流しゐる
縮尺を毛虫つづける行方かな
怪談の声の途切れる衣紋竹
城猫と顔を合せる鳳仙花
原句
鉢植えにお日様の子ミニトマト
読み方
はちうえに おひさまのこ ミニトマト
ポイント
一読、この句の言い回しに違和感を感じました。<鉢に成るお日様の子のミニトマト>と云うことなのでしょう。言い回しはよくなりましたが、何か説明調です。思い切って、
ベランダにお日様の子のミニトマト
としたらどうでしょう。鉢植えなどと云わなくても、それは分かりますし、景色が大きくなったと思います。俳句の題材や表現は、こういうところから始めて、いろいろな世界を求めて精進していけばいいでしょう。
原句
兵児帯の長身来る河童忌
読み方
へこおびの ちょうしんきたる かっぱき
※「来る」を「きたる」と読むのは作者の言葉から
ポイント
河童忌は芥川龍之介の忌日のこと。餓鬼忌ともいいますので、無理に「かっぱき」と四文字にせずに「餓鬼忌」に変えてみましょう。
兵児帯の長身の来る餓鬼忌なり
ここでは、「来る」は「くる」と読みます。
原句
太陽に真つ向勝負大向日葵
読み方
たいように まっこうしょうぶ おおひまわり
ポイント
向日葵のとてつもない力強さを詠みたかったようで、力感あふれた言葉を集めていますが、逆にイメージを殺しあい、良い効果をあげているとは思えません。読者の入る余地がなく、言葉の意味だけが強烈に残ります。意味は分かりますが余韻・余情があるとは言えません。このような句を好む読者もいることはいますが、俳句本来の楽しみは作者と読者が心を通わせることだと思います。
作者が材料を提供し、読者がそれを自分に引き付けて、それを完成させるところに俳句(文芸)の楽しみがあるといってもよいでしょう。語数が少なく何も言えなことを逆手にとって、少なからず誰でもが持っている読者の想像力を頼ることでそれは可能になります。読者の心の中でその句が育っていくと思えばよいでしょう。
ふたりごころとか、行きて返る心とか言われるのは、こういうことから云われるのだと思います。全部云い尽して作者が完成させているので、他人の入る余地がありませんのでこの句は、添削は不可能です。