今月のトンボの句抄

蓬莱山めざして夜の短かかり

合歓の咲く芭蕉も西施も遠くあり

乱高下してゐて去らぬ夏の蝶

夏草の刈られいのちの香り立つ

草いきれ嘗ていくさのありし国

炎天と云へば踏切下りてくる

瀧落ちて水の速度のゆるび出す

良寛の軸に風あり夏座敷

文月を思へば風鈴鳴りにけり

真昼間の蝶の翅舁く蟻の列

ぢりぢりと玉音放送ありし日へ

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季語の象徴性を大事に

 

原句

青葡萄パジャマ持参のお泊まり会

 

読み方

あおぶどう ぱじゃまじさんの おとまりかい

 

ポイント

青葡萄は、まだ熟してはいない葡萄のことで、葡萄の色を云うものではない。葡萄は秋の季語ですが、この青葡萄は、したがって夏の季語です。青二才などと云うその「青」です。

子供の行事などでは「お泊まり会」などと称する会が開かれます。俳句にそのことばをそのまま取り入れますと、とたんに幼稚な雰囲気になってしまいます。禁句の一つと云ってよいでしょう。子供の行事なので使ったものでしょう。

 

   青葡萄パジャマ持参で集まれり

 

季語が青葡萄ですから集まったのはそれから連想される子供と云う事になるでしょう。季語が持つ象徴性を信じれば、幼児言葉をつかい句の品位を落とすことはありません。

 

 

 

原句

レギュラーのポジションつかむ青葡萄

 

読み方

レギュラーの ポジションつかむ あおぶどう

 

ポイント

二句一章の句です。青葡萄がレギュラーのポジションをつかんだわけではありません。「レギュラーのポジションつかむ」と「青葡萄」は、ここに切れ字が利いていてその組み合わせからある連想を求めているのです。俳句の優れた表現方で、優れた俳句の8割方は、この表現法が使われています。慣れないうちは、心細いでしょうが、もっと大胆に使ってほしい方法です。

なかなかレギュラーになれなかった子供か孫か甥か姪かその愛すべき子供がそのポジションをゲットしたその喜びが溢れた句になっています。

季語の「青葡萄」を斡旋することにより、吾子だとか孫だとか自分の身内のことではなく、子供一般に通底する、その喜びを捉えたことにより、大きな句になりました。 季語のもつ象徴性につては、前の句で説明してありますのであらためて説明しなくとも理解出るでしょう。

二句一章を心掛ければ、季語のもつ象徴性から特段の説明をせずに、その意図が一句に染みわたり、ことがらの説明の句と云われることは無くなるはずです。季語が語ってくれるから。

 

日本人に共有される象徴性

 

朝の連続小説「おひさま」。主人公に赤ん坊が生まれましたね。その産着の柄は「麻の葉」です。麻の葉がもつ象徴性をその子の成長に重ね合わせているからでしょう。日本人なら誰でもわかる心遣いです。

日本人は、このような象徴性を共有していましたが、段々忘れかけているようです。俳句が滅びるときはこれを失った時です… 

 

 

● 蛇 足

 

先月、季語が季語として使われていない句の例、として

 

     風薫る山又山の木曾路かな

 

を挙げておきました。

 

 「風薫る」の季語の象徴性

 

土手の上でも、公園でも、田園でも、山道でも、そういう場所ならどこででも体験しその喜びを感じることができますね。季語「風薫る」が持つ象徴性です。

 

 地名「木曾」が持つ象徴性

 

有名な「木曾路は山の中である」を持ち出すまでもなく、木曾は山又山の中にあります。これが木曾と云う地名が持っているその象徴性です。

 

原句では、地名が持つ象徴性と季語が持つ象徴性がぶつかり合って、季語が十分に働いてくれていないことが分かりますね。地名のもつ象徴性を信頼して「山又山」を抜いてみましょう。

 

       風薫る一歩木曾路へ入りにけり

 

季語が気持ちよく働いてくれるようになりました。

俳句では念入りな表現をすると季語が季語として働いてくれない一つの例です。