今月の四苦八苦 2012・6月

   トンボの句抄

掛香を能楽堂に求めけり

若竹や疵のジーンズスニーカー

ひむがしの松の梢の蛇の衣

温泉も未央柳も夜の帳

まづ七輪火が起こされて鮎待てり

若竹や八大龍王堂のあり

あぢさゐを媼一団囲みけり

あぢさゐに迎えられたる法事かな

国分尼寺跡地なりけり蛇の行く

手の届かぬ所に在りて白菖蒲

ぬばたまの闇をくちなしありありと

ひまわりや生きる意味などありはせぬ

栗咲きてまぬがれがたき日なりけり

白熱灯一つ灯りて麦の秋

 

 

 

●気になること

お宝を信じてゐたる軸に黴  

母衣蚊帳にお国訛りの子守唄        

お供えのメロンもっとも匂ひけり      

皺皺をお洒落と言われ夏背広

 

「お」のつくこれ、話し言葉や文章では気にならない言葉ですが、俳句となるとどうでしょうか?

 

添削 母衣蚊帳に訛り交じりの子守唄

 

添削 供えたるメロンもっとも匂ひけり

 

と、この2句については、もう少しの努力で「お」を使わずに済みました。

 

 

あとの2句は、既に俳句であることを放棄していると思います。

 

また、

 

釣堀の席の自づとさだまりて      

釣堀や父と子の仲ほどほどに      

泥亀のとんと動かぬ未草

 

は、 

お宝を信じてゐたる軸に黴  

 

皺皺をお洒落と言われ夏背広

 

とともに、発想から俳句であることを放棄しているようです。

 

事柄を述べているようで、これは俳句から遠い所にあるように思えます。

 

連句という世界がありますが、この発句が後に独立して「俳句」といわれる事になるもので、きっぱりとした立ち姿が求められます。発句の後、物語を展開していくことになりますから、発句以降の句は、当然、事柄の句になって行きます。

 

事柄をもって一句とすることは、これまた、俳句を放棄している。この視点を意識ししておいて欲しいと思います。

 

不思議なことに、何事も、自分の事ではなく、なにか他所事(よそごと)になるのが特徴です。

 

はっきりしていることは、事柄ではなく、ずばりと自分の事として、断定して初めて、俳句になるということです。

 

俳句は一句独立しておりますから、の主人公は、特に誰と、描かれて無い限り、作者として鑑賞されます。風物や、また誰と、作者が所見した人物を描く時がありますが、作者がどう観たか、というこということで、そう断定することにより、くどいようですが、一句が独立するということです。 

 

何故、俳句にならないかの説明は、何処が、どうと、説明することほとんど不可能で、既に手にしている歳時記から、多くのすぐれた俳句を読んで、形やリズムなど、各自が自覚・自得するということの他には方法がありません。

 

参考・語句について

母衣蚊帳は、ほろかや。 寝ている赤ん坊の布団を覆うように架ける蚊帳

泥亀は、どろかめ。スッポンの事

 

●過剰表現からの脱出

 

その一例

 

鰻焼く一刻者の眉間皺

 

眉間に皺を刻むほどの一刻者。

一刻者の象徴が眉間皺。

そうだとすれば、敢えて一刻者と念を押さなくとも。

一刻者などよ云う表現は、手垢がついていて何もいまさら。

職人には、眉間皺はつきもので、もうありきたり。象徴する別のものを発見すれば!

この句については、まだまだ云いたいことが…

 

でも、こういう句、絶賛する人がいるんです。そんな還元に乗らずに、どうか、ここから卒業を!

 

念入りに説明した句はこの例のほかたくさんあります。多くの人にも、云えることで、思い当たることはあることでしょう。無いという人は、いない筈ですが、無自覚の人がほとんど?といっていいでしょう。ここから抜け出すためには、多くを読み…と、前述の指摘と同じです。この際、他の人が詠んだことをそのまま真似をするのではなく、それとは別の視線をそそぐこと。視線は1ミリだけずらすことで別のもになるはずです。

 

この作者だけのために書き留めているものではなく、多くの心ある人へ。

 

ヘッセ曰く


鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。
生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。

 

出来上がった世界から抜け出ること、発見をすること、鳥に準えているわけではありませんが、蛇足としてこれをもって結びとします。