掛香を能楽堂に求めけり
若竹や疵のジーンズスニーカー
ひむがしの松の梢の蛇の衣
温泉も未央柳も夜の帳
まづ七輪火が起こされて鮎待てり
若竹や八大龍王堂のあり
あぢさゐを媼一団囲みけり
あぢさゐに迎えられたる法事かな
国分尼寺跡地なりけり蛇の行く
手の届かぬ所に在りて白菖蒲
ぬばたまの闇をくちなしありありと
ひまわりや生きる意味などありはせぬ
栗咲きてまぬがれがたき日なりけり
白熱灯一つ灯りて麦の秋
お宝を信じてゐたる軸に黴
母衣蚊帳にお国訛りの子守唄
お供えのメロンもっとも匂ひけり
皺皺をお洒落と言われ夏背広
「お」のつくこれ、話し言葉や文章では気にならない言葉ですが、俳句となるとどうでしょうか?
添削 母衣蚊帳に訛り交じりの子守唄
添削 供えたるメロンもっとも匂ひけり
と、この2句については、もう少しの努力で「お」を使わずに済みました。
あとの2句は、既に俳句であることを放棄していると思います。
また、
釣堀の席の自づとさだまりて
釣堀や父と子の仲ほどほどに
泥亀のとんと動かぬ未草
は、
お宝を信じてゐたる軸に黴
皺皺をお洒落と言われ夏背広
とともに、発想から俳句であることを放棄しているようです。
事柄を述べているようで、これは俳句から遠い所にあるように思えます。
連句という世界がありますが、この発句が後に独立して「俳句」といわれる事になるもので、きっぱりとした立ち姿が求められます。発句の後、物語を展開していくことになりますから、発句以降の句は、当然、事柄の句になって行きます。
事柄をもって一句とすることは、これまた、俳句を放棄している。この視点を意識ししておいて欲しいと思います。
不思議なことに、何事も、自分の事ではなく、なにか他所事(よそごと)になるのが特徴です。
はっきりしていることは、事柄ではなく、ずばりと自分の事として、断定して初めて、俳句になるということです。
俳句は一句独立しておりますから、の主人公は、特に誰と、描かれて無い限り、作者として鑑賞されます。風物や、また誰と、作者が所見した人物を描く時がありますが、作者がどう観たか、というこということで、そう断定することにより、くどいようですが、一句が独立するということです。
何故、俳句にならないかの説明は、何処が、どうと、説明することほとんど不可能で、既に手にしている歳時記から、多くのすぐれた俳句を読んで、形やリズムなど、各自が自覚・自得するということの他には方法がありません。
参考・語句について
母衣蚊帳は、ほろかや。 寝ている赤ん坊の布団を覆うように架ける蚊帳
泥亀は、どろかめ。スッポンの事
●過剰表現からの脱出
その一例
鰻焼く一刻者の眉間皺
眉間に皺を刻むほどの一刻者。
一刻者の象徴が眉間皺。
そうだとすれば、敢えて一刻者と念を押さなくとも。
一刻者などよ云う表現は、手垢がついていて何もいまさら。
職人には、眉間皺はつきもので、もうありきたり。象徴する別のものを発見すれば!
この句については、まだまだ云いたいことが…
でも、こういう句、絶賛する人がいるんです。そんな還元に乗らずに、どうか、ここから卒業を!
念入りに説明した句はこの例のほかたくさんあります。多くの人にも、云えることで、思い当たることはあることでしょう。無いという人は、いない筈ですが、無自覚の人がほとんど?といっていいでしょう。ここから抜け出すためには、多くを読み…と、前述の指摘と同じです。この際、他の人が詠んだことをそのまま真似をするのではなく、それとは別の視線をそそぐこと。視線は1ミリだけずらすことで別のもになるはずです。
この作者だけのために書き留めているものではなく、多くの心ある人へ。
ヘッセ曰く
鳥は卵の中から抜け出ようと戦う。卵は世界だ。
生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。
出来上がった世界から抜け出ること、発見をすること、鳥に準えているわけではありませんが、蛇足としてこれをもって結びとします。