トンボの句抄
涼しさや柿の葉寿司を口にして
鳳仙花指に絡みて散りにけり
郭公の吾子吾子吾子と呼びにけり
成り成りて成り余るもの天瓜粉
草いきれ平均寿命延びにけり
石段を上りて行けば蟻地獄
蟬鳴くを待ちて白浪立ちにけり
夏氷残して人の消えてゐる
炎天の中へ立ち入る涼しさよ
炎天や天上大風しづかなり
露坐仏の背から生まるる夏の蝶
炎熱やオリンピックへ生るる
百キロメートル先には宇宙百日紅
◎添削
原 句
船遊鴎に水先任せおり
読み方
ふなそび かもめにみずさき まかせおり
添 削
水先を鴎に任せ船遊び
原 句
汗拭ひ袂に入れて稽古終ゆ
読み方
あせぬぐい たもとにいれて けいこおゆ
添 削
稽古終ゆ袂から出す汗拭ひ
原 句
下校の子青田の畦を駆けており
読み方
げこうのこ あおたのみちを かけており
添 削
下校の子青田の畦を駆け行けり
原 句
作付けをふたたび初めし青田かな ※この「初め」は「始め」の誤記でしょう
読み方
さくづけを ふたたびはじめし あおたかな
添 削
ふたたびの作付け成りし青田かな
上記、一句づつ、特に解説はいらないでしょう。
◎今月は、見るべき句が無く残念でした。
●昼寝子の万歳の手にある未来
「未来」の一語で共鳴者が多かったようですが、どんなものでしょう。言葉として理解しているのでしょうが観念的で一向に句が語りかけてくれません。
「万歳」といえば、普通、立ってします。両手を開いたまま、上に挙げ、また下げることを何回か繰り返します。違和感があるのはその辺から来るのでしょう。昼寝の子の万歳?。
意思を示すものがあって「…手にある未来」が生きるのでは。この措辞なども、もう4、50年前に流行りました。未来など、誰だって持っているのですから…
この作者の求めるのは、正確な物事の把握です。それには、主観を外した写生です。ただし、「季語」は 写生できまません。季語は季語として大きな世界をもっているからです。
幼稚園などに行けば、午後になると「お昼寝の時間です」と夏冬季節にかかわらず「昼寝」をします。それは、この句の「昼寝子」からは夏の季語であるところの「昼寝」とはおのずから違いがあるでしょう。少なくとも、夏、遊び疲れての寝姿。季語の場合にはこれが想像されます。いや、そうとも云えないよという人もいるでしょうから、この違いを納得するように説明できませんから自得してもらう他はありません。
季語を季語として使え!とは、この会のスローガンに挙げてもう大変な時間が流れています。身につけて欲しいと切に願っています。多くの句を読みこんでもらって徹底的に先人の句の意図するところその呼吸を真似することです。
念のため更に。
作者の主観を強要する気持ちははわかりますが、描かれたものが語るものが俳句です。
噺家が、師匠から「お前がしゃべってどうするんだよ。登場人物にしゃべらせ無くてどうするんだ!」と言われたと云う芸談に残っています。これとと同じです。これで云えば、夏の季語である「昼寝する子」です。それは、時間が来て布団に入って行儀よく寝ている子ではないでしょう。
未来と云えば、子供が持っている一般的に云うところの未来。この頃見せてきたある才能の成長を期待する未来などいろいろあると思います。それを象徴するものを配すならば、一句はおのずからそのことを語ってくれるものです。俳句表現の要諦です。
ついつい興がって自分で語ってしまいますがここでの自重が求められます。
●家の灯の遠し山田の草螢
季語の「蛍」を信じていれば、「家の灯遠し」など不要。
●砂の子を丸洗ひする葭箕小屋
この句の季語は、「葭簀小屋」?「砂の子」って?。上の2句とともにいずれも読み手の震えるような心が感じられないという事。
●青田風五臓六腑に胸中に
こちらは、こんなに詳しく?あれこれ強調されなくとも一点を抑えれば、俳句は成功します。以上4句とも同じ人のものです。どれも句の中に作者不在のような気がします。
いずれにしても俳句の読み込みをして俳句の形を再確認してください。まずそこから始まり、その読み込みの中から自分と同じこと狙っている句があるか?、あるなら、それを手本にすればよいし、無いからこそ、それを自分が開くということならばこの指摘はすべて無用となります。
俳句の形式を覚え、それを活かして、一句に作者が反映されているとき、その句には、輝きが出てきます。その輝きを今後に期待しましょう。
●青田風利根の鉄橋走りけり
走ったものって何?
●茗荷二個隅々探す冷蔵庫
あったはずの茗荷を探しまわったの?
●避妊の餌あさる寺鳩鬼灯市
???世の中、こうなんですか?
※残念ですが、以上の句は、ボツ、作者の気持ちを推し量ることができませんので添削の対象になりません。
●初酉を確と繰る日や青田刈り
兼題、「青田」の句として投句されました。
絶賛されるひとが居て、絶句しました。
葛飾区では、かって農家がしめ縄などを副業で作っており、これは、お酉さまで使う熊手の注連縄造りの句と思い至りました。作者に確認したところそうであることが分かりました。
この注連縄に使う青い稲藁は、「実取らず」と云って注連縄を作る材料として、栽培している品種で実らせず青いうち刈り取ります。これを「青刈り」といいます。
兼題の句としては、完全な誤りです。
さて、こう分かったところで句としての欠点を正さねばならないわけですが…
あまり気が進みません。句としての欠点は、今回も今までにも何度もいろいろ書いているので分かると思います。
●七夕や書いて叶ぬ願ひ事
●一人旅ひとりは寂し天の川
「七夕」の句ですが、季語をじっくり研究すれば、こんなレベルの句とは、簡単に決別できるでしょう。
誰の句にも言えるのですが、興味の対象が安い所に漂っているようです。
句会に出される句を見るところつまらない毎日を過ごしているように感じられます。そんな筈は無いと思います。俳句を案じるときに限り萎縮しているのでしょう?
もっと自分を見せてくれるといいと思っています。
こんな事を云えば笑われるなどと委縮してしまうことのないように。その中で、曖昧なことは削ぎ落とし言うべき事を相手に分かるようにしているか?を注意しましょう。
読者が受け取っている世界を、「自分とは違う」と云うこと無く、読者の思い描く世界をも理解することは重要です。そしてその鑑賞をも自分ものとすることす。
手帳の俳句であったものが、自分の手を離れた「作品」は、もう自分のものではないのですから。ただし、「作品」ならば、です。
いずれは、世阿弥の言う「離見の見」を紹介しましょう。