曼珠沙華のこして田んぼ終りけり
行けば又さびしき秋の祭町
自らに見えぬ吾身や曼珠沙華
一言にはじまる秋思雲流る
心頭を滅却すれば秋なりし
秋の蜂机の上に来てゐたる
色鳥や女流作家の筆の跡
奢らざる者へも桐の一葉かな
吐く息の吸うより長し登高す
足許に闇の来てゐる鶏頭かな
萩叢をこどもが一人飛び出せり
もう時の止まれどんぐりころころと
天高し油滴天目見し日なる
邯鄲の一語一音更けゆけり
鐘の音も豆腐の笛も秋の暮
止まれば己が影ある秋夜かな
まさに四苦八苦。
他所へ発表した文章ですが、肝心ところにミスプリがありました。ここへ再録しておきます。再録に当たり意味の取りやすいように修正したり行間を開けました。
※ミスプリは「で」となるところが「て」でした。
松枯れて
徳川家康が浜松城で武田信玄の軍勢に包囲されたとき、勝ちに乗る武田方は、城中に一句を送りました。
松枯れて竹たぐひなき旦哉
※まつかれてたけたくいなき旦哉
と、武田軍有利を高々と宣言しています。これを酒井忠次が機転を利かして、次のように
松枯れで武田首無き旦哉
と、読み替えて、盛り返しの機運を作ったという話があります。
松は、松平で徳川方。竹は、武田側です。
よくできた作り話と思います。
近松門左衛門は、物書きとして今にその名が知られていて、事実数々の名作を残しています。
門左衛門、なにかと分かりやすく物を書くことにに気を使っていますが、一向に無頓着に、句点などうるさいばかりだと言って憚らない数珠屋に、
ふたえにしてくびにかけるじゅずを、注文します。
句点とは、文章の区切りに打つ「。」のこと。
濁点は、室町時代には、つかわれていたということですから、「くび」などと、 「゛」を打つことが本当はよいのですが、今残っている、よく見かける文書などには、そのいずれもつかわれていません。教養のある人物はそんなガサツなことはしないと言い、分かる人にはそれで充分、と云ってはばかりません。
現在でも、色紙や短冊を染筆するときは、濁点や半濁点、勿論、句読点なども打たないのが常識などとも云われており、文字以外の点や濁点などは、汚れに見えといって、その方に軍配が上ります。
そのようなことですから数珠屋の言い分はもっともなこと。数珠屋は、これを、
「二重(ふたえ)にして首にかける数珠」と読み、首にかけられる長い数珠を作りました。
実際に注文したのものは、「二重にし、手首に掛ける数珠」のことで、さぞ、数珠屋さん懲りたことでしょう。
文明開化、明治になると、句読点・濁点などはっきりさせて読み違いの無いように、なったそうですが、乱れていたようで明治三十九年二月、文部省大臣官房調査課が「句読法(案)」を起草するなどして整理されました。
先日の会津への旅行で、猪苗代の野口記念館へ立ち寄りましたが、明治四十五年現存唯一という母、シカが、息子英世に送った手紙が展覧されていました。
おまイの○しせにわ○たまげました○わたくしもよろこんでをりまする○なかたのかんのんさまに○よこもりを○いたしました○ー以下略。※「しせ」は「出世」
大きな○が書かれていますがこれは、句点(。)です。「幼い頃に覚えた文字を思いだし」云々と説明がついておりましたが、この句点、何を見て覚えたのでしょうか。並々ならぬ注意力と理解力、努力のあとが感じられて、この親にしてこの息子ありという気がしてきました。