当月抄
水勢に音の加はる猫柳
春寒し梅若寺へ詣でけり
古隅田川へ出でけり犬ふぐり
春の雪硝子の中に洋装店
如月の言問橋を渡りゐる
リサイクルショップにドレス木々芽ぐむ
靴下を三足買へり春の来る
春寒し国会議事堂ありにけり
散髪のあとのさびしき梅の花
喫茶去と矢印ありぬ馬の花
紅梅も白梅もまた奈良茶漬
毛氈に腰を下ろせば春なりし
うで卵十ケ剝かれて匂鳥
如是我聞あとは有耶無耶あたたかし
恋猫や百本杭はこの辺り
黄水仙結界標す石ひとつ
ろくろから土立ち上がる春の雲
手を振って歩巾を広く春の風
白梅やくれはとりあやはとり
白梅や明り手にして来る媼
以上から十句を選出
気になった句
父がゐて母がゐた日の春炬燵
口語ですが、それは目をつぶり、これは、回想をしている文章であってそれがどうなの?と疑問が出ます。文章としても完結していないのでは、と思います。ところが多くの人が俳句として共鳴されているようです。意味が分かるので、簡単にその回想についていかれたからでしょう。残念ながら情景が伴いませんので、言葉のうわべのことで分かったと思っているからです。
父がゐて母がゐた日や春炬燵
とするなら、俳句です。「や」によって「切れ」が生れて二句一章の句になり、「春炬燵」というモノの句となり、眼前するのは、「春炬燵」。春になってもまだ終わずに置いてある炬燵が春炬燵ですね。いつもは、その炬燵で父母が中睦まじく過ごしていたのに、いまは、居ない。という具体的なことして感じられると思います。そこからは個人個人の自分としての感慨が導き出されてくることでしょう。
俳句表現とは、言外に込められたその感慨を表現することです。意味で繋がらないような表現をするとでそれが可能になることに注目をしてみてください。
では、この句は、どうでしょう?
敷金と礼金不要燕の巣
敷金と礼金不要、と燕の巣とは、そこで切れていますからこの二つは、意味の上で別々のものとなります。言外の意は?
敷金と礼金不要の燕の巣
ここに、「の」をもってつなぐと、家を借りようとすると、家主には敷金、不動産屋さんに礼金を払わなければならないけれど燕はそんなものはいらないので良いな、という句意になります。
原句には、「の」がありませんが何かそんな風な解釈してみたくなります。
その方が面白いと思ってしまうからです。言外の意も何もありませんがただ面白さを狙った句ということ?
こういう興がった句が好きな人がおります。多くのひとが喝采するからですが、俳句の本筋ではないでしょう。
言外の意を表現するのに都合のいいのが「二句一章」という俳句形式で、俳句の8.9割はこれです。意味でつながっていませんから読者が自由に読みとってくれます。
「や」で切ることによって、それぞれの個人個人の父母追慕の気持ちが届けられたり、
「の」でつないだことによって意味が分かったという、
この上の二例です。
読み方
白梅や真青な箍の四斗樽
読み方は、はくばいやまさおなたがのよんとだる
となります。「四斗樽」は、「しとだる」と読むのものです。そうであればそう読めるように。
京都で今、バスの停留場の「七条」の呼び方が話題になっているようです。当然「しちじょう」とするところ「一条」や「四条」との危機間違いを防ぐように「ななじょう」としています。
NHKのアナウンサーがニュースを読むとき、七のところ例えば、七時半を「しちじはん」とは読まずに「ななじはん」というように「しち」を避けています。
よく聞いていると「しち」と日常使っている部分を「なな」としていますが、耳から聞いて聞き間違いのないようしていることと察せられます。
それと同じようなことになりますが、地名さえも読み変えてしまったいるということなのでしょう。
土地では、「七条」はどう呼ばれているかと云うと「ひっちょう」です。方言です。土地の言葉は、その土地の誇り。旅行者のとっては、好い響きに聞こえてきます。「太秦」を「うずまさ」と読めるように「七条」を「ひっちょう」と読むことは旅の楽しみとなることでしょう。
話はそれましたが、「しとだる」と読み方方の定着しているものは、そう読むように言葉を斡旋することを工夫して欲しいと思います。日本語を壊すようなことはやめましょう。