十薬や通過儀礼の日のありし
あこ吾子と鳴く郭公のおそろしき
蛙鳴く真の闇とは云はねども
明易し夢も現も境なく
麦秋やつぎつぎ通るダンプカー
夏めける阿弥陀被りの帽子売り
古着屋もあんず飴屋も夏めける
ひとことも分からぬ言葉蕗を買ふ
光悦寺垣の傷みも走り梅雨
蚕豆のたそがれ永き城下町
夏めける東京メトロ銀座駅
くたびれて椅子を借りゐる鉄線花
海渡る桜前線蠅叩き
焼八寸祭囃子の近づき来
噴水や根本中堂ありし跡
吟行で行った西新井大師。21日はお大師さんの縁日なので行ってきました。
少しは、句が得られましたが、不作です。写真をどうぞ!
ジャズ祭の果てて置かれし夏帽子
ジャズ祭の興奮冷めやらぬ…その跡に夏帽子があったとすれば…、
それとも誰かが置いて行ったのでしょうか。
帽子が
そこにある
置かれている
忘れ物
残っていた
置いてった
ある
興奮の残骸
落ちている
などいろいろ現状を把握。
その結果、「置かれし」、と。何故置いてあるのか?
あるいはこういうこと?
ジャズ祭の果てて残れる夏帽子
ジャズ祭の果てて落ちてる夏帽子
ジャズ祭や踏まれて残る夏帽子
ジャズ祭のあの興奮が、今は静か。その跡地に帽子一つ。興奮と静寂を一句を込めることはできそうにも思える素材です。
季節(とき)忘る母に蕗煮るひと日かな
認知症の兆しが見える母親。季節も分からなくなってしまった母。そう断定している句ですが、こんないにズバリと言ってしまっては、母親が可哀想です。
そういう母親を詠むことは大事ですが、認知症の始まった母という前提で俳句を詠むことはどうでしょうか。
俳句では、どんなことでも気負ったり、気取らないことです。私は、こんな風にしていますという気取りを消しましょう。
季節よと母に蕗煮るひと日かな
母の手を借りて蕗煮るひと日かな
と、添削してみました。読む人が「ああ、そうなのかもしれない」と感じてくれるかもしれません。
何気ない形でそのような母との交流を提供してください。これが大切。
母の日や食事処の列につく
の句も出ていましたが、そういう母親をこういう所へと、いらぬ心配をします。母親も承知で、おいしいお店で並ぶ価値があるのでしょうが、どうなのでしょう。
他人家のことをあれこれ言うようですが、折角の心をこめた行いが、活きるような表現をされることを願っています。
その第一の注意は、何度も言いますが、気負わず、気取らぬことこと。
・気取っている句
たまゆらの夢の涙よ虎が雨
さみだれや及ばぬことの多かりし
恰好よく決めているようですが、無内容の句です。
鳥瞰の植田光れる夕べかな
この句にも気取りが見えますが、内容は具体的なので添削してみます。
鳥瞰に光れる棚田昼の月
即物的に、われ・眼前・只今を詠みましょう。
今回は、どの句にも、かなりきついことを云っています。四苦八苦これを乗り越えて貰いたいものです。